人との間で、気持ちが揺れるから、人間というのかな?
 
 
昨日メキシコに行くと決めてから、
娘の大学の卒業式との日程がかぶっていると聞かされた。
 
  
 
ううう…
一瞬怯むが、
行きたい方は、メキシコだと心が指す。
  
 
 
ここで、卒業式に行きたいと、
心が指せば、すべてをキャンセルしただろう。
  
 
 
ひどい親だ。
そう見えるかもしれない。
  
 
 
メキシコはいつでも行けるけど、
私の卒業式は1回だけだよ。
ボソッと娘はそう言ったけど、
それは娘の価値観から出た言葉。
 
  
 
うん、まぁその気持ちもわかる。
だけど、私の気持ちを押えて出席したとしたら、
一生、あの時メキシコに行きたかった「のに」となる。
  
 
 
この「のに」は怨念だ(笑)
あなたのせいで行けなかったんだから。
私はあなたを優先したんだから。
 
 
 
そんな思い1ミリも浮かばないならいいけど、
私はきっと浮かぶだろう(爆)
一生「のにオバケ」を飼い続けることになる。
私にとっても、1日1日が私の特別な日だから。
 
 
式に行かないから、
娘の式より、自分のことを優先するからといって、
愛していない証拠ではない。
 
 
もしかしたら、
そういう風に感じてしまうこともあるのかもね。
 
 
 
娘は大好きで大切な存在だけど、
そのことを恨まれようが、
ひどい親だと憎まれようが、
かまわない。
私は変わらず愛していればいいだけのことだもの。
  
 
 
これが「嫌われる勇気」なのかもね。
好きな人に嫌われるのは、ちょっと辛いから、
やっぱり、避けたくなるよね。
 
 
行動してみて、結果的に嫌うか、嫌わないかは、相手の範疇のことだから、
こちらからはコントロールできないこと。
だから、それが起きるか?起きないか?と怖れて避けるよりも、
本心でぶつかってみて、結果を受け取るしか妄想から逃れられる道はない。
 
  
 
自分のパターンに置き換えてみて、
もし、私に一度きりのセレモニーが
この先あるとしたら…と想像してみた。
 
 
 
死んだ時くらいかなぁ(笑)
(人知れず死んていくかもしれないけどw)
まぁ、それまでに、
いろいろと節目はあるかもしれない。
60歳とか88歳のお祝いとかね。
(お祝いをしてくれる人がいないことには成り立たないがw)
  
 
 
お祝いの席があったとしても、
お葬式となったときでも、
その時、娘にがやりたい事があって、
そちらを優先して、
その場に居なかったとしても、
私は全然かまわない。
むしろ好きなことをしていてくれ!と願う。
 
  
 
私は、あなたの自由を認める。
私は、私の自由を認める。それだけのこと。
(「だから私の自由も認めて」ではない。その交換条件的なものはない。)
   
 
 
人の気持ちがわかるから、
いろいろとややこしいことが起こるのね。
相手の立場にたてる目線があるから、
世界は優しく出来てるのかもしれない。
  
 
 
私は散々、そちら側を体験してきたから、
もう、いいかな。
つぎは、ムリかも…と思えることをやっていく番。
  
 
 
こういうことを「お試し」というのかもしれない。
 
 
いちばん大切なのは、
「自分がどうしたいか」
 
 
 
そこを選べと、試されている。
自分の本心、選択をするには、
 
 
 
「で、あなたはどうしたいの?」と質問し、
 
 
ハートにある答えに従うのが一番いい。